パキスタンの歴史

導入

パキスタンは1947年8月14日に地図に登場しました。しかし、歴史ははるか昔から続いて います。パキスタンは711年にラジャ・ダヒール王国が海賊に滅ぼされた時の難民として避難してきたムハンマド・ビン・カシムが南アジアにイスラム教を伝 えて以来、繰り返されてきた故郷の分裂が絶頂を迎えた時にイスラム教徒の手によって建てられました。

イスラム教の伝播は、歴史的な独立性をこの地位にもたらしただけでなく、パキスタンの国境を築く、その力をもたらしました。

石器時代

人類の発祥のころ、世界各地で人類の祖先と考えられている生物の化石が発見されています。そ のうちの一つに、ラーワルピンディー近郊、ポトハー郡、ソーン谷で、50万年前の人骨と考えられている人骨が八卦されました。この周りの地域では他にこれ ほど完成した人骨の化石が発見されてはいませんが、ソーン谷には天然石の道具が見つかっており、間氷河期の間に人類が苦労をして旅を続けてきた跡が残され ています。このころの人類の生態を知るために、ソーン谷で発見された人類の跡はわかりやすい指標となっており、この周辺の文化はソーン文化と呼ばれていま す。紀元前3000年バローチスターンのいくつかの谷に足跡などが発見されており、小さな村が作られていたと考えられています。この谷は、後にこの地域に 世界4大文明の一つができるあけぼのとなりました。この地では、石器時代の人類後がさらに見つかり続けています。

これらの先史時代の人類は、定住をはじめ、農業と狩猟をしました。谷とその周囲の平野では牧畜、大麦やその他の作物を作りました。

赤・黄土器時代

いくつかの先史時代の洞窟には、彼らの生活痕が残っています。層をはがしていくと、これらに は二つの時代があります。赤土器時代と黄土器時代の二つの時代に分けられると考えられています。この時代でもっとも有名なものは、クエッタを含む北バロー チスターンのゾーブ文化、シンド州と南バローチスターン州のアムリ・ナル、クリ文化として知られています。アムリ・ナルの村や町は防御用の石の壁と砦が見 つかっており、家は石の土台で作られています。ナルでは、広大な墓地に100を超えるお墓が作られていたものが発見されています。これらの文化の重要な点 は、アムリとその周りの地域はインダス文明発祥よりも前の地層から見つかっており、ナルのステアタイト石と銅器、いくつかのタイプの土器はインダス文明と 重なります。そのため、これらの先史文明の文化はインダス文明の発祥のルーツになっているのではないかと考えられています。

先史時代の遺跡の一つであるシンド州コート・デイジー地域は、インダス文明発祥のころ 300-500年間の歴史の生成について数多くの情報を残しています。紀元前2800年から2500年にかけて、新しい文化のいくつかがハラッパー文化の 前段階としてこの地域で発見されています。

先ハラッパー文化

バローチスターン州の初期のころの村の遺跡では、複雑な環境に対応する設備はまだできていませんでした。文化的に成熟していた彼らは、コート・デイジ-を 目指して旅をしました。紀元前2500年から2500ねんにかけて、インダス文明で最も栄えた町はモヘンジョダロとハラッパーでした。これらのインダス文 明の人々は高いレベルの絵画、工芸があり、きれいな気が書く模様の文字に近いものが作られています。しかしこれらの文字は現在にまったく残っておらず、こ れらの文章の翻訳の作業は今も続いています。モヘンジョダロとハラッパー都市は、人々が連携して同じ町での生活を楽しみ、同じ形の道具を使用していたこと を暗示しています。同じ形のれんがで作られた公共の建物と、公共の沐浴場、道路、水路を見ると彼らの生活が浮かんできます。

アリヤン文化

紀元前1500年ごろ、アリヤンの人々が突然パンジャブ州の地域に立ち入り、サプタ・シンデュと呼べれルインダス平野の場所に定住しました。彼らは農業主 体の街を作り、リグべディック文明と呼ばれる街を作りました。リグべディックは「神の行い」と呼ばれる彼らの神を賛美する歌で歌われています。サプタ・シ ンデュがアリヤン文明の中心地であったことも知られています。この文化はカースト制度を持って降りず、カースト制度と、複雑な犠牲に捧げる人々の選び方 は、ゲンゲティック谷で形成されました。アリヤン文明がインダス文明の文明の光景文明であることは疑うことがないです。

ガンダーラ文化

ダー・スワット地域でのガンダーラ朝の発見は、昔から謎とされていた紀元前1500頃のイン ダス文明の終わりから、紀元前6世紀のアケメネス朝の間のパキスタンの文化歴史に、光を与えました。ヒンデュー神話とサンスクリット文学伝統はインダス文 明とアリヤン文化の滅亡と関係があるとは考えられていましたが、その間を埋める文化については謎とされていました。ガンダーラ朝は、パキスタンの文化遺産 の中で、2つの時代に関係をしています。一つはブロンズ製器時代であり、もう一つは鉄器時代です。これらは、特殊な起伏の激しい地域にすんだガンダーラ朝 の墓にその証拠を認めることができます。この文化はインダス文明とは違う文化を持ち、バローチスターンの村とは一定の関連を見つけることができます。この 当時の発見された遺跡を調べると、アリヤン都市の紀元前1500年から600年ごろのどこかの時点でこのガンダーラの地域に移住してきて生成されたと考え られています。仏陀が彼の教えを広めはじめ、南アジア大陸にも伝播をしてきました。また、この時期に、ダリウス一世がイランから進出し、シンド州とパン ジャブ州の地域を自分の帝国の20番目と地域として編入しました。

このダリウス長と紀元前3世紀におこったマウリヤ朝にはとても大きな共通点があります。カウ ティヤのアースシャストラがペルシアの強い影響をパキスタンに与えていたころ、マケドニアのアレクサンダー大王が紀元前330年にダリウス3世を滅ぼし て、ビーズ川ぞいにまた影響を与えるようになりました。しかし、ギリシャの影響はマウリヤ朝の出現に対してはある程度の影響しか与えることはできませんで した。マウリヤ朝チャンドラグプタ帝の孫にあたるアショーカ帝が現在の北パンジャブに当たる地域にインダス平野を中心とした国家を作りました。その他の地 域はインダス河にまたがる広大な地域が手つかずでした。これらの現在パキスタン領となる地域は紀元4世紀におこったグプタ朝にも征服をされず、紀元13世 紀におこったデリー・スルタン朝までの間平和な時期をすごしました。

ガンダーラ朝の美術は紀元1世紀から5世紀までの500年 に現在のペシャワール付近のスワット、ブネール、バジャール地域のパキスタン文化の中でも最も貴重なものの一つです。この美術は文化革命からも守られまし た。インド、仏教、グレコ・ローマ風の特徴的な彫刻、美術で、ガンダーラ美術はその当初からペシャワールからインダス谷までにわたるシルクロードを治めて いたクシャン朝カニシュカ帝の庇護を受けてきました。

イスラム教の伝播

南アジア大陸へのイスラム教の伝播は、711年のムハンマド・ビン・カシム氏の到着に始まります。ウマイヤ朝の下で、イスラム教徒の自治組織が作られ、後 にアバシド・カリファテが現在の南、中央パキスタンの場所である場所に、支配権を確立しました。いくつかの都市が建設され、アラビア語が公式のイスラム教 の言語として紹介されました。マームード・ガズナの侵攻のときには、イスラム教徒の自治はまだ守られていましたが、それはムルタンを含めた少ない範囲に弱 い権利しか付帯されませんでした。ガズナビズ(976年ー1148年)とその後継者であるガウリド(1148年ー1206年)は中央アジア出身でしたが、 彼らは現在んおパキスタンの領土とほぼ同じ領土を所有しましたが、首都はインドにはおきませんでした。最初のイスラム教徒の王朝は13世紀の初めごろに打 ち立てられ、デリーを首都としました。1206年から1526年にかけて、5つの小さな王国がたてられました。彼らは最終的にムガル帝国(1526年ー 1707年)に併合されましたが、支配権は手放しませんでした。ガズナビズのころから、アラビア語に代わってペルシャ語がインドに浸透してきました。西部 のイスラム教徒によってもたらされた経済的、政治的、宗教的な知識は、イスラム教徒の印象を良くしました。王国の法律はシャリアにならって作られ、王様が この法律を施行しました。長い期間かけて、これらの法律は公共の場で守られるようになっていきました。南アジアでのイスラム教の影響は深く、幅広いもので した。イスラム教徒は新しい宗教をもたらしただけではなく、新しい市民生活、新しい生活、新しい価値観を持ち込みました。イスラム教の美術、文化、上品 さ、社会、教育は、イスラム教の王様たちによってもたらされました。ウルデュー語は、アラビア語とペルシャ語の単語が現地の単語、イディオムと結びつい て、イスラム教徒によって使われるようになり、徐々に全インドに広がっていきました。

ウルドゥ語:パキスタンの公式言語

宗教と離れたところで生まれたものではありましたが、ウルドゥ語は南アジアで価値観の違いが表面化するまでイスラム教徒のコミュニティーで使用されました。

イスラム教の連帯感

イスラム教徒としての価値観は、ムスリムの力が南アジアで分断されるまでさまざまに研究されていました。最初の哲学博士であったシャー・ワリウラ (1703年ー1762年)でした。彼はインドでのイスラム教の改革を行い、ほとんどすべての19世紀、20世紀に行われた社会的、宗教的刷新の運動の先 鞭をつけました。彼の直接の後継者は、彼の教えを学び、イスラム教の近代的な政府を北西インドに作ろうとしました。シャイェド・アフマド・シャヒード・バ レルビ氏(1786年ー1831年)によってこの試みは成功しました。

英国の勃興とイスラム教徒の受け入れ

イギリスは、東インド株式会社を設立したころから、インドの土地を狙っていました。彼らの約100年にわたり南アジアに徐々に浸透していきました。彼らは シャリアを更迭し、アングロームハンマド法を作りました。また、ウルデュー語に変えて、英語を公式言語としました。これらの発展は、社会的、政治的、経済 的な衝撃を南アジアのイスラム教徒に与えました。1857年、英国式インド兵と、イスラム教徒の独立運動組織の間で戦争がありました。これらの戦争とその 後の平和の間に徐々にイギリスの支配は確立されて行きました。

宗教教育

1857年の戦争が失敗に終わってから、イスラム教徒は、イギリスに対して発言権を失っていきました。将来に対する影響を排除するために、イギリスは慎重 にイスラム教徒の権利を剥奪していきました。自由のために戦っていた人物の財産と不動産は没収され、正直に生きるすべての人の努力は無に帰しました。イス ラム教徒は、これらの状況を不快なものととらえていました。彼らの宗教指導者の活発な人たちは、コミュニティの主流の生活を捨てて、イスラム教徒が排他的 な宗教教育を受けられるように配慮をしました。この流れはじきに高等宗教教育の施設をデオバンド、ファランギ・マハル、ライ・バレイリに建てることになり ます。これらの学校を建てたウラマたちは、イスラム教徒に彼らのアイデンティティを教え、これらの新しい問題に耐えるための方法を教えました。

教育の再生

イスラム教徒は、西洋式の教育や政府機関から南アジアを守っていると考えていましたが、もう 一つの民、ヒンドゥ教徒は、そのようには考えておらず、新しい法律を無抵抗に受け入れました。彼らは西洋式教育を受け、新しい文化とこれまでイスラム教徒 が担ってきた地位を取り入れていきました。もしこの状況が続くならば、イスラム教徒にとって重大な損害が下ることは明らかでした。差し迫っている危機に対 してさいしょに声をあげたのは、シー・シェド・アフマド・カーン(1817年ー1889)の1857年の声明でした。彼はイギリスとイスラム教徒の間を必 死になってとりもちました。彼の持論は、西洋教育と知識の受け入れが、イスラム教徒を安全にする唯一の道だと考えていました。彼はいくつかのステップを踏 みながら、目的を達成しようと頑張りました。彼はアリガルーに大学を建て、西洋教育の受け入れを進めました。アングロームハンマドに教育を平等に受けさせ るため、彼は1886年に教育のための会議を自らがスポンサーとなって行いました。これにより、彼はイスラム教徒に、西洋教育と社会がイスラム教徒の知性 を広げるために助けを与えていることを理解してもらおうとしました。これに近い運動の一つは、ナワブ・アドブル・ラティフ(1828年ー1893年)がベ ンガルで開いたムハンマド・文学ソサエティです。シー・シェド・アフマド・カーン氏の努力は、アリガール運動へと進化を遂げてゆきました。そしてこの運動 は南アジアの全域にさまざまな跡を残してゆきました。これらの働きによr、この大陸でソサエティが開かれ、イスラム教の教育を参考とした教育が育ってゆき ました。

シー・シェド・アフマド・カーン氏は英国の統治に対する反抗とも取られかねないイスラム教徒 の他の政治組織との断絶の方針は嫌っていました。彼はまた、ヒンデュー教徒とイスラム教徒が一緒になって危険な冒険騒ぎを起こすことも嫌っていました。彼 は1860年代にヒンデュー語を話す人々がウルデュー語を話す人たちにヒンデュー語を教え、言語を統一しようとしていた動きに幻滅をしていました。そのた め、彼は1885年に設立されたインド国民議会にも反対をしました。そして、イスラム教徒に、自分たちの組織を持つべきであるとの意見を発信し続けまし た。彼と同時代に生きた偉大んイスラム法学者、シェド・アミール・アリ氏(1849年ー1928年)は、彼の議会に対する考え方を示しましたが、彼はイス ラム教徒が独自の政治組織を持つことには反対をしませんでした。事実、彼は中央ムハンマド国民委員会と呼ばれるイスラム教徒の最初の政治組織を築きまし た。その委員になれる人は限定されましたが、南アジアの地で50もの支部を作り、イスラム教徒のための実務的な教育や政治活動にはげみました。しかし、こ れらの働きは19世紀が終わると同時ごろに途切れてしまいました。

イスラム協会

20世紀が始まるころ、イスラム教徒に、独自の政治組織を持つ必要があると感じさせるいくつ かの出来事がありました。そのため、1906年10月に、35のイスラム教徒の指導者が英国総督に会い、宗派ごとの分離選挙の実施を要請しました。3ヵ月 後、全インドムスリム連盟がナワブ・サリムラー・カーン氏によって、イスラム教徒の政治的権利と活動の擁護のためにダーカで組織されました。英国はムスリ ム協会が全インドを代表する政党と位置づけ、1909年んお選挙において宗派ごとの分離選挙を認めました。ヒンドゥ教・イスラム教統一組織の試みにより、 二つの宗派のコミュニティが別々の道をたどっていることが鮮明に明らかになり、全インドの指導者の間で、大きく深い問題を残しました。彼らは議会とイスラ ム協会を同じテーブルにつけることに奮闘をしました。建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー氏(1876年ー1948年)がイスラム協会を率いていまし た。ベンガル地方の分割の取り消しと、ヨーロッパのオスマン・トルコ帝国と北アフリカに対する高圧的な態度がイスラム教徒の心を和らげ、イスラム教徒はイ ギリス支配からのがれるためにヒンデュー教徒と連携をすることを受け入れました。

ムスリム連盟の議会での親善活動が功を奏し、1916年のラックーナウ議論は受け入れられ、 共同の政治方針がきめられました。議会では、宗派ごとの分離選挙が認められ、イスラム教徒は、自分の宗派の人々に対して「待ちの時代」と呼ばれる時期に入 りました。イスラム教徒はベンガルとパンジャブでの少数派としての地位に甘んじることを受け入れました。ラックーナウ条約の後に、ヒンデュー教徒とイスラ ム教徒は年一回の会議を同じ町で開き、それぞれの直面している問題に対して一緒に解決の道を探ることに合意をしました。

キラファト運動

ヒンデュー教・イスラム教統一統一組織の絶頂はキラファトでの無政府運動の際に迎えました。 イスラム教徒はマウラナ・ムハンマド・アリ氏と、マウラナ・シャウカット・アリ氏の二人の兄弟に率いられ、第一次世界大戦後のオスマン・トルコ帝国保護の ための歴史的なキラファト運動に参加をしました。モハンダス・カラムチャンド・ガンディー氏(1869年ー1948年)はサワラージ(自治)とキラファト を結びつけ、ヒンデュー教徒にも参加wお呼びかけました。そののちに続く運動は、最初の田舎での国民の運動でした。

この運動は失敗をしましたが、南アジアでのイスラム教徒の存在を誇示するには十分な衝撃を与 えることができました。彼らは長い時間をかけてイスラム教の問題を利害の一致のために解決をしてきていました。また、この運動は、イスラム教徒の指導者 に、国民をまとめ、運動する手法をも教えることになりました。この経験は、後にイスラム教徒がパキスタン建国の運動を興すときに大変役に立ちました。キラ ファト運動の挫折はヒンドゥ教徒とイスラム教徒の間にしばらくの間かたいしこりを残しました。ヒンドゥ教徒は反イスラム組織を2つ、シューディとサンガサ ンで立ち上げました。これまでは、イスラム教徒をヒンドゥ教に改宗させるための運動をしてきていたのですが、このころから、ヒンドゥ教徒が主権を持つ国を 建国するために運動をしているようになっていきました。その報復として、イスラム教徒はタブリーとタンジンでおこったシューディとサンガサンの反対運動に 資金を提供しました。1920年代、共同の闘争は影をひそめました。いくつかのヒンドゥ教・イスラム教統一組織は問題の解決のために会議を持ちましたが、 この二つの宗派の問題を完全に解決することは不可能のように見えました。

イスラム教徒の安全への願い

これらの状況に鑑みて、イスラム教徒は憲法に対しての要求を強めました。彼らは数字上での多数派をパンジャブとベンガルで保持したいと願い、シンドのボン ベイからの分離を求めました。また、パローチスターンの憲法が北西辺境地域の憲法と分離するように働きかけました。これらの要求をするにあったて、全イン ドムスリム協会な英国政府に対してジョン・サイモン氏を1927年に派遣するよう要請しました。

サイモン委員会

協会の一部ではサイモン委員会の受け入れに反対をしました。それは、この委員会がすべて白人で構成されているからであり、全政党会議の場でもネルー氏の委 員会とのつながりが深いこともわかったからです。ネルー・レポートは反イスラムの姿勢を強めており、国民議会そのものがこのレポートの採決をイスラム教徒 に対して公正ではないとの判断から否決しました。

アラーマ・ムハンマド・イクバル

数人の指導者とと知識人は、ヒンデュー教徒とイス ラム教徒の違いを知った上で、宗派ごとに別の国を作った方がよいとの見解を見解を持っていました。しかしながら、この見解はアラーマ・ムハンマド・イクバ ル氏(1877年ー1938年)が1930年に全インドムスリム連盟のアラハバードでの会議の冒頭で発言をするまで公に語られることはありませんでした。 彼は、南アジアのイスラム教徒の健全な発展のためには、最低でも北西でのイスラム教徒が多数を占める地域において、自治を獲得する必要があるとの意見を発 表しました。後、建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー氏は、北西インドのイスラム教徒の地域おいて同じ意見を持つようになりました3年後、ケンブリッジ 大学で学んでいた数人の生徒がチョードリー・レーマット・アリ氏の指示のもとに、パンフレットを印刷しました。その中で、彼らはイスラム教徒が多数を占め る土地をもじり、パキスタンの名前を付けました。この考えは、当初、イスラム教徒の間でもあまり受け入れられませんでしたが、10年かけて、イスラム教徒 が真の自治を求め始めた時に再び注目をあびるようになりました。

建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー

1930年から32年にかけて、ロンドンで行われた円卓会議の席上で、インドの憲法に関する 問題が議論されました。ヒンデュー教徒とイスラム教徒の指導者は、この会議に招待をされ、議論をしましたが、公式の共同声明を発表することはできませんで した。そして、英国政府は「共同体賞」の設置を発表し、1935年のインド政府が執り行いました。この議会の前の選挙において、およそ5年間イギリスで活 動していたムハンマド・アリ・ジンナー氏が1934年に帰国をし、時々活動を休止せざるをえなくなっていた全インドムスリム協会を再編しました。ムスリム 協会は議会のイスラム教徒枠のなかで、これまではその組織のもろさから多数を占めることができませんでしたので、インド国民議会のイスラム教徒に対する扱 いはひどいものでした。選挙後、議長は高慢になり、威張り散らすようになりました。そのひとつの例が、地方組織において、イスラム教徒と連合して政府を作 ることに難色を示したことでした。彼はイスラム教徒に対して、地域議会に参加をするのではなく、国民議会に一本化するようにもとめてきました。1937年 の選挙後のもう一つの重要な動きは、イスラム教徒の何人かが、ムスリム協会に参加する以上に国民議会に参加をすることを呼びかけるようになったことでし た。その運動の立役者の一人、ジャワハラール・ネルーは、インドには英国と国民議会の二つしか力のある組織はないと言いましたが、これらはイスラム教徒の 心を変えることはできませんでした。

ムハンマド・アリ・ジンナー氏は、南アジアに眠る第三の勢力であるイスラム教徒の力に言及をし、全インドムスリム協会は、かれの天性の指導力とともに、強い組織を作り上げてゆき、イスラム教徒を一つにまとめてゆきました。

イスラム教徒の故郷の分離

1930年代は、イスラム教徒のアイデンティティ の崩壊への認識と、それぞれの分離した地域への分割の不安が巻き起こった時期でした。このイスラム教徒に対する問題が起こった重要な要素の一つは、 1937年から1939年にわたって行われたイスラム教徒の少数派に対する国民議会の法律です。国民議会の政策は、これらの地域に住んでいたイスラム教徒 をいたく傷つけました。それぞれの地域はイスラム教徒が少数派となるように工作が施され、イスラム教徒はそれぞれの地域で苦渋の生活を営むことになりまし た。イスラム教徒はこの時点にいたって、それぞれの地域での安全を求めるだけでなく、イスラム教徒の完全な自治を求めるようになりました。1937年から 1939年にわたって、何人かのイスラム教徒の指導者と知識人はアラーマ・イクバル氏の考えを発展させ、二国論を作り上げました。

パキスタンという選択

全インドムスリム連盟はこれらの提案を吟味し、イ スラム教徒の、イスラム教徒が多数を占める地域での自分自身による自治を求める声の大きさも考慮し、最終的に、1940年3月23日、全インドムスリム連 盟の歴史的な会合をラホールで開くことになりました。この会議での解決策はパキスタン独立案でした。パキスタンへの要求は、イスラム教徒の間で広がりまし た。この会議はイスラム教徒に過去のイスラム教徒の歴史と約束された将来への希望を思い起こさせました。彼らは即座にこの決議に沿って活動を開始し始めま した。

クリップ提案

英国政府は1942年、スタッフォード・クリップ 氏を通じて、パキスタンの独立の要求を第二次世界大戦での協力次第で受け入れることを表明しました。国民議会と全インドムスリム協会は、それぞれ別個の理 由からこの勧告を拒否しました。分離独立案は支配を分けるだけのことでしたが、最終的には約束が含まれていました。交渉失敗の後、国民議会議長C・ラジュ ゴパラチャリア氏は、イスラム教徒の完全な独立を受け入れるほかに道はないことをインド国民議会の小委員会で発表しました。この案は否決されましたが、 1944年のジンナー・ガンディー会議での基礎となりました。

パキスタンへの動き

第二次世界大戦を通じて、イスラム教徒の間でパキスタンの構想はより現実味を帯びるようになりました。

男性、女性、生徒、ウラマ、ビジネスマン

全インドムスリム連盟の下で、それぞれの組織が作 られました。政党支部が南アジアの各地に作られるようになりました。パンフレット、書籍、雑誌、新聞などの文芸が発展し、パキスタンへの期待を宣告各地に 配信してゆきました。全インドムスリム連盟とパキスタン独立への期待はますます支援をうけながら広まり、1945年、ワーベル総督によるシムラ会議が失敗 に終わった時、試練を受けました。選挙が行われ、それぞれの政党の強さが図られました。全インドムスリム連盟の選挙運動はパキスタン独立への要求をもとに 行われました。イスラム教徒のコミュニティは、思いがけない形で答えました。議会でのいくつかのイスラム教徒枠の政党が連合し、ムスリム連盟に反抗しまし た。しかし、全インドムスリム連盟は中央議会の30席と地方議会で議席を獲得しました。選挙後、1946年4月8日と9日に、全インドムスリム連盟は新し く選出された全議員をデリーに集めて議会を開きました。この議会には、すべての南アジアのイスラム教徒の代議士が参加し、ベンガル地方の首相であるフサイ ン・シャヒード・スラワルディ氏がパキスタン分離独立要求を繰り返し伝えました。,

政府の計画

1946年初め、英国政府は上院議員団を南アジア に送り込み、この問題に対する対処をしました。この議員団はいくつかの政党と交渉をすることができましたが、すべての政党が合意する案を作ることはできま せんでした。最終的に、上院議員団はこの地域を3つに分割する案を発表しました。これは、イスラム教徒が多数を占める二つの地域と、中央のヒンデュー教徒 が多数を占める地域に分け、緩やかな条約により、イスラム教徒の自由な往来を認めるというものでした。ムスリム協会はこの提案を受け入れることを決めまし たが、将来的にはこの地域が離れすぎないようにとの注文を付けました。全インド国民会議も受け入れを決議しましたが、じきにこの問題点を指摘し、議会指導 者はこの受け入れにかくれて反対の意を示し始めました。この動きは全インドムスリム協会を刺激し、8月16日には、提案の受け入れの前に「直接行動の日」 を設け、イスラム教徒のパキスタンに対する期待の強さを示し始めました。

分離独立

1946年10月、政府のひながたがつくられました。ムスリム協会は政府のために戦ってくれ ることを期待し、リアクァット・アリ・カーン将軍秘書を初代指導者に指名しました。しばらくして、準備政府の内部の問題と国民議会との解決のためには、パ キスタンの国際社会の認定が必要不可欠であることが分かりました。英国政府は、1946年12月の上院議員団提案に固執していましたが、最終的にインドの 分離独立に合意をしました。最後のインド総督、マウントバッテン卿は、権限の移譲のための最終的な交渉を担いました。

政府首班と政党間の協議が重ねられ、パキスタンへの権限の移譲が勧められました。そして最終的に、英国政府は、1947年6月3日、最後の仕事が終了したことを宣言しました。

パキスタン国の形成

国民議会とムスリム協会が提案に賛成をしたことに より、イスラム教徒が多数を占める二つの地域、ベンガルとパンジャブが独立をしました。西パンジャブと東ベンガル、シンド、バローチスターンのクエッタ議 会、パキスタンに参加を表明したシャヒ・ジルガが集まりました。北西辺境とアッサム州シルヘットが後に参加をしました。そして、最終的に1947年8月 14日。パキスタン国は世界地図上にその姿を表しました。